9/07/2005

キッカケはNIFTY-Serve

教科書には載らないニッポンのパソコン通信の歴史 Encyclopedia of Japanese BBS Cultureはてなブックマークで見かけて思わず読み込んでしまった。

僕の初NIFTYはたしか1995年だったなー。部署が変わって技術部ってとこに送られて行ってみたら、古い98にモデムがつながっていて、NIFTYのIDを部で共有してて。なんとかいうターミナルソフトにマクロが組み込まれてて、一通り巡回させてログを片っ端から見る。技術部に移ったとたん、Eメールアドレスももらったんだけど、そっちは最初はあまり使いでがなくて、もっぱらNIFTYで情報収集してたっけ。会社にいたFreeBSD使いがMosaicで遊んでるのを見て何だありゃ、と思ったり。

そのうち部署が横浜に引っ越して、組織が一部変わって、僕の直属の長が三菱電機から出向してきた。田窪昭夫さん(なんと東京電機大学の教授になってるじゃありませんか)。田窪所長は今でいう筋金入りのgeekで、当時Delphiが出たてで、DOSエンサイクロペディアとにらめっこしながらDelphiのインラインアセンブラでDOSのINT発行してマシン日付を変えるとかいうDLLを書いたら数10KBものサイズになっちゃって、「アホかおのれは」呼ばわりされたっけ。

田窪所長の目の前に座っていた僕は、所長の机の上にあったモデムに相乗りさせてもらい、自分のマシンでNIFTYにアクセスできるような環境を作った。んで、NIFTYに入り浸り、調子に乗ってCompuServeにも出かけ、情報を収集しては社内報でひけらかしてたんだった。新人のときにうっかり作ったAccessベースのアプリケーションのせいで、Accessの技術サポート担当みたいなことになって、勢いでNIFTYのフォーラムで発言してみたり、流れでSQL Serverのフォーラムに行ったらSQL ServerのPMだった北川さんとORACLEの池田さんの「俺のがスゴイ」バトルに遭遇して見物したりしてたっけ。

田窪所長に会わなければ、あの後もっと違った人生だったかも。田窪所長のモデムが目を開かせたせいで、それまでの世界がつまらないものに見えるようになったのだ。パソ通ばんざい。僕がこんなブログ書いてることなんか気づかないでしょうけど、田窪所長、今さらながらありがとうございました。

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